8月6日、広島は原爆が投下されて75年となる「原爆の日」を迎え、多くの人が犠牲者に追悼の祈りを捧げています。
そんな中、ある被爆者の体験がネットニュースで話題に。
日本に里帰り中に被爆した日系アメリカ人の壮絶な被爆体験が語られています。
平和について考えさせられる内容です。ぜひ御覧ください。
日本に里帰り中の7歳の少年が見た地獄
75年前、ヒロシマには多くの日系アメリカ人がいた
「炎に包まれた町では火傷を負った人が水を求めてさまよい、大勢の人が亡くなって倒れていました。私は“虐殺の海”の中を歩いて逃げたのです」
82歳のハワード・弘・蠣田(カキタ)さんは今でもはっきりと75年前のことを覚えている。
アメリカ・ロサンゼルスで生まれた日系3世。蠣田さんは広島に住む祖父母の家に滞在中、被爆した。戦前、広島からアメリカへ渡った日系移民の子供たちは日本語や日本文化を学ぶため、また、親戚を訪ねるなどの目的で日本に里帰りしていた。
開戦当時、広島にはおよそ3000人の日系アメリカ人がいたと推定されている。蠣田さんもその1人だ。人類史上初めて原子爆弾が使用されてから今年で75年。戦争に翻弄されながらも生き抜いて来た日々を語ってくれた。
1940年、祖父の見舞いでアメリカから広島を訪れた蠣田さん一家。その後両親は仕事のためアメリカへ戻り、蠣田さんは2つ年上の兄とともに祖父母の家で暮らしていた。広島に原爆が投下された1945年8月6日、当時蠣田さんは7歳で、国民学校の1年生だった。
ハワード・弘・蠣田さん:
「その日は敵機が近くにいるからということで学校は休みになり、家にいました。離れの平らな屋根の上では祖母が洗濯物を干していて、私と兄もそこに登りました。屋根の上からは遠くからやってくるB-29の飛行機雲が良く見えました。祖母から『すぐに屋根から降りなさい』と注意され、私たちは屋根から降りたのです。私は建物の中に入り、兄が家の横にあった門を通り過ぎた時、爆弾がさく裂しました。私は何も見えず、何も聞こえませんでした。意識を失い、建物のがれきに埋もれてしまったのです」爆心地からわずか1.3キロ。幸運にも蠣田さんはがれきの下から自力で這い出すことができ、奇跡的に兄も無事だった。祖母も命は助かったものの、爆風で飛び散ったガラスの破片が全身に刺さりひどいケガをしていた。
ハワード・弘・蠣田さん:
「私たちは山の方へ逃げました。人々の大群が市内の中心部から山の方へ向かっていて、みんなひどいケガをしていました。ひどい火傷をして、体から皮膚が垂れ下がっていました。中にはお腹から内臓が飛び出したままそれを抱えて逃げている人もいて、道路にはたくさんの遺体がありました。そして多くの人が、水を求めてさまよっていたのです。その中をどれくらいの時間歩いたかは分かりません。永遠に続くような気さえしました。その虐殺の光景は、その後何年にもわたって私の心に残り続けました」数日後、避難先から戻ってくると祖父母宅があった一帯は全てが燃え尽き、辺りには遺体を火葬する臭いが漂っていた。焼け野原となった町でトタンなどをかき集めて家を作り暮らしたが、しばらくひどい下痢の症状が続き、髪の毛も抜け落ちてしまったという。
アメリカへ戻っても原爆に苦しめらることに…