衝撃

【原爆投下から75年】「そこは虐殺の海だった」7歳で被爆した少年がみた地獄…壮絶な被爆体験に涙せずにはいられない……

7歳で被爆した日系アメリカ人

「夜は悪夢にうなされ、泣き叫んだ」

アメリカへ戻っても続く被爆の影響

1948年、蠣田さんは両親の待つアメリカへ戻ったが、その後も心に負った傷に苦しめられることとなった。

ハワード・弘・蠣田さん:
「アメリカへ戻った後も、悪夢にうなされました。母によると、私はよく夜中に起きて泣き叫んでいたそうです。また、スパゲティやレアの肉など、あの時の光景を思い出させる赤い色の食べ物は口に出来ませんでした」

在米被爆者たちは、後遺症と向き合う一方、“原爆を落とした国”に暮らすことでの苦難も多かった。「原爆を使ったから戦争が早く終わり、多くのアメリカ兵の命が救われた」と原爆投下を正当化する声も聞かれた。このため、自身の過酷な経験を誰にも話せず、口を閉ざす被爆者も多かったという。蠣田さんは大学生だった25歳の時、妻となるアイリーンさんに結婚を申し込む。その時、全てを打ち明けた。

ハワード・弘・蠣田さん:
「彼女は私が日本で育ち、広島にいたことは知っていましたが、(そこで何があったかは)詳しくは知りませんでした。だから結婚を決めた時に、『自分は広島で被爆したから、放射能のせいで長生きできないかもしれない。子孫にも影響があるかもしれない』と全てを話したのです。まだ若かったからあまり気にしていなかったのか、彼女は受け入れてくれました。でも、その後授かった長男を5歳の時にガンで亡くしたのです。医師は『おそらく放射能とは関係ない』と言いましたが、私は気持ちのどこかで私が被爆したせいなのではないかと考えてしまいます・・」

幼くして亡くなった長男。直接関係はないと分かっていても、心のどこかで「被爆のせいではないか」と思い、葛藤が生じる。蠣田さんは二重の苦痛に耐えなければならなかった。

“ヒバクシャ”は自分たちで最後にしたい

在米被爆者の高齢化が進む中、ロサンゼルス周辺には原爆の経験を語り継ぐ活動を続ける被爆者たちがいる。蠣田さんもASA(米国広島-長崎原爆被爆者協会)のメンバーとして講演会などで積極的に自身の経験を語り、核兵器の廃絶を訴えている。75年が経ち、核を巡る状況が一向に改善しない中、蠣田さんは自身が語り、伝えることの重要性を強く感じるようになったという。

講演会でアメリカの人たちに被爆経験を語る蠣田さん

ハワード・弘・蠣田さん:
「過去の過ちから学ぶことは本当に、本当に大切です。しかし75年経った今、人類はさらに強力な破壊兵器を保持し続けています。日本にいる被爆者、アメリカにいる被爆者、多くの被爆者が核戦争の恐ろしさを語って来ました。自分もそうです。1人の声は小さいですが、かけらを集めて大きな絵を作るように、人々の声を集めれば大きな力になり、世界の指導者たちに届くはずです。原爆のような兵器は完全に禁止し、“ヒバクシャ”と呼ばれるのは、自分たちが最後になってほしいと願います」

過酷な時代を生き抜き、今では2人の娘と4人の孫たちに恵まれた

漫画「はだしのゲン」の描写は見てるだけでもトラウマ級の凄惨さですよね、実際に体験し、生還した方々は想像できないぐらい、壮絶な人生だったでしょう、、

「原爆投下を風化させてはならない」という気持ちでアメリカで被爆体験を語る活動をされている蠣田さん。素晴らしいですね。

蠣田さんの「原爆兵器を完全に禁止し、“ヒバクシャ”と呼ばれるのは、自分たちが最後になってほしい」というメッセージを深く心に刻み、今一度戦争について深く考えたいと思います。

参考:FNNプライムオンライン

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